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chapter,1 (2)

last update publish date: 2026-07-06 09:54:42

 上城が座る席の前に、その席はある。ロシアからの帰国子女が編入して二週間、ようやくクラスは平穏さを取り戻し、上城自身も周囲の人間と仲良くなってきたが、彼には未だにわからないことが幾つか存在していた……その一つが、窓側の空席のこと。

 品川が編入初日に言っていた、該当者であろう女の子の席、なんだろうか? 不思議に思った上城が、クラスメートに尋ねると、困ったような表情で、あっさり受け流される。

「ああ、そこはスズシロさんの席だから」

 スズシロさん、という固有名詞を上城は何度聞いたことか。それ以上詳しく聞こうとしても、彼らは何かを怖がっているみたいで、よくわからないと逃げてしまう。

担任に尋ねると、スズシロさんは虚弱体質の持ち主で、夏休みの間に入院して、二学期から戻ってくるはずだったのだが、長引いてしまい、退院するのが遅れているのだ、とのこと。

「品川。スズシロさんってどんな子?」

「どんなって聞かれても……正真正銘の美少女だけど、怖いくらい頭がよすぎて、ちょっとついていけないとこがあるなぁ」

 聡明そうな少女だった。ロシア語で器用に「騎士は淑女の前に跪き謝意を表するのが慣わしでしょ?」と歌うように口ずさんだ彼女のことを思い出し、上城は苦笑する。まあ、あれは彼が若気の至りで少女にキスをしてしまったから言われたのだろうが。

 思い出し笑いをしている上城を不気味そうに見て、品川は呆れる。

「そんなに気になるか? 彼女のこと」

「気になるね。俺に挑戦してきたんだから」

「……人違いだったらどうするんだよ。知らねぇぞ」

 だが、品川の心配は無用だった。

 なぜなら、上城春咲が運命の人だと決めつけた少女が、鈴代泉観すずしろいずみ、本人だったから。

   * * *

 十月。

 学園内の金木犀が橙色の花をつけはじめる。校内だけでなく、周辺にまで甘い香りが漂う。裏門から入った鈴代は、鼻孔をくすぐる甘い芳香に惑わされることなく、一目散に向かうのは自分の教室。

 結局、三ヶ月かかってしまった。消毒薬の匂いが充満していた病院で怠惰な日々を過ごしていた彼女は、感傷を隠すように、校内へずかずか入っていく。そのまま、久々の教室の扉を開けて、いつもの席に腰をおろす。

 ふわり。風もないのに黒髪がたなびく。ほんのり、金木犀の甘い香りがまとわりつく。だけど鈴代は金木犀の花が嫌いだ。朽ち果てた花びらがアスファルトの上に落下するのを見る都度、自分の残骸のように感じてしまうから。

 さりげない「おはよう」の挨拶。久しぶりだね、なんて笑いかけても、級友たちは困ってしまうだろうから。鈴代はあえてさりげなく挨拶をする。日常生活に溶け込んでいる彼らにこれ以上、迷惑をかけたくないから。

 窓際の自分の席。あれ、後ろに机が並んでいる、誰か転入生でも来たのだろうか?

 チャイムの音と同時に、ガラリ、横開きの扉が思いっきり開く。驚いて鈴代が顔をあげると、そこには……あのときの、彼。

 裏庭で、わたしを眠り姫と呼んだ少年が、濃紺の学ランを着て、自分と同じ教室にいる。

 しばし、ぼうっとしていた鈴代。だが、上城は鈴代に気づくことなく、自分の席……鈴代の後ろの席へ急ぎ、腰掛ける。

 一限は現代文。教科書を取り出し、上城は気づく。やべぇ、筆箱忘れた。

「なぁ、シャーペンかしてくんね……」

 思わず前の席に座っていた少女の肩を叩き、気軽に声をかける。

 ……ちょっと待て。俺の前は、空席じゃなかったっけ?

 突然声をかけられた鈴代、振り向いて、何事もなかったようにシャープペンシルを差し出す。心臓は今にも爆発しそうだというのに。

 ……なんでなんでっ? 編入生がうちのクラスに入るなんて話聞いてないっ!

 鈴代が一人パニックに陥っているのを知らずに、上城、

「サンキュ……」

 慌てて彼女から差し出されたシャーペンを手にし、そして。

「君、あのときの眠り姫、だよね?」

 何も持っていない左手で、鈴代の頬にそっと、触れる。慣れた手つきで。女の子を口説き落とすには最高の、アルカイックスマイルまで加えて。

 だが、クラスメートが上城の爆弾発言を聞き、硬直している際に、教師が到着したらしい。

「は、放して」

 頬の上に乗った彼の手のひらが熱い。顔を真っ赤にしたまま、小声で訴えて、ようやく、黒板の前に顔を向ける。教師は窓際の後ろの座席で邂逅した二人を気にすることなく、出席簿を読み上げつづけている。

「カミジョウ。上城は欠席か?」

「あ、はい! いますいます」

 我に却って元気良く応える上城の姿はとても滑稽だと鈴代は静かに笑う。

「スズシロは今日も欠……」

「はい」

 ギョっとして、教師が窓際を一瞥する。そこには、普段いないはずの少女の姿。

「退院したのか、すまん……」

 そして、何事もなかったかのように授業が始まる。

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